♪No1にならなくてもいい〜、なんて歌が流行ったけれども、やっぱり競争社会に生きている以上は1番じゃないと意味がない。 なんて厳しいことを思ったり思わなかったりなのですが、459本ある国道の中でもやっぱり国道1号と言うのは特別な気がするのです。昔は1級国道・2級国道の分けがあったのですが、その区分が無くなった現在では指定区間か指定区間以外かという違いしかなく、そう言う意味では指定区間を有する1号も506号も同列なわけですが(506号は自専道だからちと違うか)、それでも1番目と言うのは特別に感じるわけです。 そんな国道1号ですが、明治時代(M18〜T9)は東京〜横浜間、大正時代(T9〜S27)は東京〜伊勢神宮間だったわけで(伊勢神宮と言うのが時代を感じさせるけれども)、現在の東京〜大阪間となったのは昭和27年12月4日からのことである。 僕が国道1号を意識したのはいつのことだろう。大阪富田林に住んでいた大学1回生の秋だったか。夜中にふと何処かへ行きたくなって一人クルマを走らせた。北へ行こうと思ったが1号に合流したら「このまま1号を東へ行くか」と思い東進。深夜の京都を通過し、鈴鹿を下ったあたりで「このまま行ったら東京まで行っちゃうよ(ガソリン代が無いよなぁ)」と思い、四日市の辺りで引き返して朝一の授業へ向かったのが最初だったのではないだろうか。四日市駅か津駅かの「今日の日付」の入場券を持って朝一の教室へ顔を出した僕に友達は驚かれたと言うか呆れられたと言うか、そんな表情だった。 それから十年余。この国道1号を一気する機会に恵まれた(と言うか自分で仕向けた)。嫁さんの引越に託けて日本橋→梅田新道を走ろうと企んだ。途中で宿泊もするし、寄り道もするから厳密な意味での一気とは言えないが、僕としてはこれで良い。2004年3月27日、13時ちょうどに日本橋を出発。嫁さんに橋の真ん中にある元標を見せて、これが本物で橋の欄干の所にあるのはレプリカだよと説明する。川崎までは比較的流れが良いが、保土ヶ谷では激込み。右折があるのでどうしようもないのか…。戸塚付近は旧道を行くが、JRの踏切の所で時間帯通行止めによりアウト(哀)。バイパスに戻って一気再開。しかし渋滞が酷い。左足が辛い。次のクルマはATにしようかなんて思ってしまう(結局AT車にしたのはこの日の思いが無くはない)。明るいうちに箱根を越えたかったが思い叶わず、夜の箱根を越える。「ここは自転車で上りたくないよね〜」「こんなところを箱根駅伝は走ってるんだよね〜」箱根を越えればあとは比較的快走路。藤枝で赤く光った気がするのは気のせいにしておいて、この日は掛川の宿で宿泊。 翌28日。嫁さんは最後までつき合えないので、当初豊橋で降りて東京に戻る予定だったが、思ったより速く走れたので名古屋まで行くことに。名古屋で「ひつまぶし」を食べて、嫁さんを熱田駅で投下。渋滞、快走を繰り返しながら走る。国道1号と言えば全区間素晴らしい道だと思う人もいるだろうが、実際は片側1車線の区間も多々あって渋滞することも多い。当初の予定では19時頃に梅田新道に到着する予定だったが、それは叶わなさそうだ。これでもかと言うくらい渋滞にはまりながら走る。結局21時過ぎにkokudou.comの友人I氏が出迎えてくれて梅田新道到着。32時間の旅(宿泊、休憩込み)は長かった〜〜。 |